生きづらさは、幸せへのヒント。
青葉カウンセリング・カフェ、あおばです☕
教員時代の師走は嘘偽りなく忙しかった!
仕事が終わるのか…暗いトンネルに入って、光(出口)が少しも見えないまま生徒と笑顔で接する、大きな器が・・・(^^;)
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— 青葉ライフワーク・カウンセラー (@Aoba_cocorono) 2021年11月27日
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先日、Twitterでのアンケートにお答えくださった皆さまありがとうございました❦いいねをして下さった皆さまもいつもありがとうございます❦
意外に、HSPがぶっちぎりの第1位ということでした☆
HSPに関心いただいて嬉しいです!
ということで、今日はHSPについての続編をお話したいと思います。
第一弾はこちらです⤵
私の人生を振り返って、『あのできごとはHSPだったから』という答え合わせをお話しようと思います。
私の人生とHSP
(1)転校が多くても対応できたわけ
(2)部活で二人一組が異常にしんどかった中学時代
(3)やたらと疲れていた高校時代
(4)親友を失ったハートブレイクを引きずる大学時代
(5)失礼な夫の顔色さえもうかがった結果
(6)中学時代からHSPが強く出てきている理由
今日は、(3)(4)のお話を進めてまいります。
(3)やたらと疲れていた高校時代
高校入試で、初めて自分で進路選択をしました。
入試ではなかなか力が発揮できないという、場所に慣れにくかったり、いろんなところが気になってしまうHSPさ満開な受験だったなと思い出します。
自分の希望する高校になんとか合格し、通学を始めました。
好んで通っていた高校でしたが、毎日めちゃくちゃ疲れていました。
通学に自転車で30分かかるので近くはありませんでしたが、それくらいの人はたくさんいました。
運動部に入るのなんて到底無理で、文化部で週に3日くらい活動するくらい。
それなのに、家に着いたらぱったりと倒れるように眠ってしまうことばかり。
体に重大な病気や疾患もなく、健康体。
それなのにひどく疲れてしまう。
今思えば、HSPの気疲れだったように思います。
学力的に同程度の生徒が集まり、過ごしやすい高校生活だったからでしょうか?たくさんの友達や知り合いができてうれしかったのかもしれません。
「登校して、玄関から教室までたどり着くのに何分かかってるのよ?」と友人に言われるほど、あちこちで人に声をかけられ、声をかけ、引っかかっていました。
そう、八方美人の完成です。
ドーン。
楽しかった高校時代にさえこんなんですわ。
当時は嫌という感情はありませんでしたが、
親密な関係よりも広く浅くだったように思います。
HSPのみならず転校生のサガなのか、
誰とでもうまくやってしまう、言い換えると自然に無理しているのに気づかなかったのかもしれません。
勉強についていくのも途中からは放棄し(特に理系はからっきし)、あの頃に自分軸がすでに確立していれば、こんな学校生活でいいものかと何かしらの決断をしていたかもしれないな…と今書きながら感じました。
ただ、中学生の時も、高校生の時も、美術の時間が大好きでした。次の日に美術があると思うと、眠れないくらい。よっぽどですよね。
うまいとかそんなのではなく、ひとりの世界に入り込んで、コツコツ彫金したり、木を彫り続けたり…とにかく好きだった。HSPはひとりの方が、気を遣わずに楽だということ、感受性が高く美意識が高いと知ると、美術が好きだった理由が分かります。
ただ、大好きな美術ではなく、何もせずとも得意な英語の道に進みました。
他人軸のまま、次の大学受験に突入します。
人に認められたいという、人の心の動きや、まわりのニーズをうかがうHSPらしさだなとも思います。
(4)親友を失ったハートブレイクを引きずる大学時代
結局、大学は推薦で進みました。
私はとにかく勉強をしないのですが、それなりの学歴は付けたい気持ちは強くありました。
母に推薦を受けたいと話した時、スーパーで母に大きな声でなじられたことを覚えています。私の成績が芳しくなかったことも母の頭にはなく、お姉ちゃん(私)は国立大学に行くものだと決めつけていたようです。高校3年生の10月のことです。
父が蒸発したので、当然お姉ちゃんである私は母の思い通りになると思っていたようです(聞かされてもいませんでしたが)。
進路希望には、家の中を察して『国立〇〇大学』そう書かざるを得なかった。そうは言っても、HSPらしく察する力は人一倍です。
『しょうがないでしょ、私が成績良くないの分かってないの?プレッシャーがつらかった』などと言えたらよかったのですが・・・
母からひどい扱いを受けても、
HSPらしく、基本的に『私が悪い』という自分を責める思考が底辺にありました。
その観念に飲み込まれながら大学に通うことになります。なじられた、私が行くところではない場所。
私が通った大学は国立ではありませんでしたが、教員養成に定評があり、現場ではたくさんの卒業生が活躍しているのに。
それでも、大学時代に親友と呼べるくらいの友人ができました。ひとり暮らしをしている彼女の家によく遊びに行きましたし、泊っていたりもしました。
その友人が妊娠し、学生結婚することになりました。
私はそう決めた彼女を祝福し、できるだけのことはしました。授業のこと、彼女の結婚式の準備(二次会の幹事でもありました)などなど。
そんなとき、彼女の流産が分かりました。
結婚を取りやめることなく、無事に式も終了。
彼女が私に言った言葉は感謝ではなく、なじりのことばでした。
詳しくは覚えていませんが、「お休みしていた間の授業のことで、教えてくれなかったことがあった」といったような内容だったように思います。
ただ、私には覚えのないこと。
それでも、彼女は私が悪いと言っているのだからそうなのだろう。私が悪いんだ。やっぱり自分を責める思考にはまっていきました。
心を閉ざした日々が始まりました。
同じ教員志望だったのでゼミも同じでしたが、話すこともなくなりました。ゼミ自体も面白くなくなり、ただ免許をもらいに行くだけの日々を過ごしました。
繊細に感じ、ショックを受けすぎてしまう自分に驚くほどでした。それが、HSPであることも起因していたかと思うと、あの時にHSPについて知っておきたかったです。HSPはわりと新しい研究なので、私の学生時代にはまだまだ知ることもありませんでした。
知るは力。
分かれば、罪悪感を抱えやすい自分を客観視できるような気がしています。
卒業後、お互いに東京都の公立中学校に着任。
彼女から私の勤める学校に手紙が届きました。
ひどいことをしたという謝罪の手紙でしたが、涙が溢れましたが彼女に返事を書くことはできませんでした。。。私は自分が悪いと思い込んでいるので、心が痛すぎてパンドラの箱を開けることができないんですね。
こうやって書いてみて自分で気付くことは、起きた事実よりも、私が受け止める真実は大きすぎたなと感じます。これでは、まわりの人たちも、理解が難しいだろうなと思います。
付き合った彼も何人かいましたが、今となってはどうしてこんな人たちと付き合ったのか…自信がなかったことや、自分のいる場所ではないという観念が引き寄せた彼らだったように思います。
ただ、その観念は30過ぎまでで続くことになります。
後記
「HSPだったからか」と理解が進むと、
自分や自分の人生を許すことができるのを感じています。
それはHSPのことだけではありません。
なかなか解決できない問題が起きる時、その裏では『そうなる理由があること』をまず知ることからが始まりなのかと私は思います。
自分ひとりのなかでグルグルした思いは、時間をかけてもなかなか変わりません。誰かと分かち合うことで、新しい考え方が自分の中に入ってきます。
「誰も分かってくれない」と前に進むことを拒むより、カウンセラーと関わってみることをおススメしています。
それでは次の投稿でお会いしましょう♪
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